異界からのエロスの使者

丸山勝久
詩集「うろくずやかた」跋文

 西野りーあ詩集「うろくずやかた」の幻想の世界は、I「うろくずやかた」、II「天人狩り」、III「亜拉毘亜幻視行」の3部で構成されている。「うろくずやかた」の詩篇は、壮大な調べの序章であると同時に、西野の詩相の根源を提示する重要な宝庫でもある。
 “闇の話を知っている。光と闇は別のものではなく、その本質は同じなのだ。闇の力が凝縮する時、それは光を放つ。その光は光であってもやはり闇なのだ。中略。山の奥、森の奥、川や湖のあたりにいくつも国神の結界がある。しかしその地を迷い出た遠い子孫の私には、力を解き放つのもその地を捜し出すのもおぼつかない。中略。私は私の心の赴くままにさまようことにしよう。お前を忘れて此の世の人並みの平穏を手にすることができないのなら。苦しい充実した闇の時間の中、不安と焦燥と歓喜の予兆と絶望の尾を引いて、内なる力を信じてゆくしかない。”(“闇はぬば玉抄”より)。このような現実認識はどこから来るのであろうか。“後書き”には、“親からは確かに肉体を受け継いではいるけれど、魂は他所から来たものであり、本当の「魂の故郷」や「魂の親族」があって、仲間たちがいるのだと感じていた。私は地霊に呼ばれて一人旅をする。しかし、異界は日常から離れた所にあるものではない。東京の雑踏を行き来しながらも、呼ぶ声は聞こえる。異界も精霊界も常に此の世の中と不可分に絡み合っているのである。”とある。
 空間と時間と時代に制約された現世。環境と教育と文化に呪縛され、常識という名の妖怪の規制を受ける事なしに生きることの難い人間社会。特に問題の多いこの国において、“異界者”としての西野が、どのように苦しみ、もがき、己の出自を問い続ける生を重ねてきたのか。この間の事情は、散文詩「人魚迷宮譜」(文芸誌「水脈」18号、19号)に見事に結実されている。
 西野といえども時代に侵蝕される。現代の物質文明の荒波にもまれ、精霊たちに去られ、巫術の衰えを感じた詩人は、天人を求めて、単身、荒野へと旅立つ。そして、砂漠の果ての古都の遺跡に一人立つ西野は、現代の西欧文明の起源となった一神教の遥かな先の、多神教のさまざまな神を霊視するのである。これらの詩篇がIIの「天人狩り」である。IIIの「亜拉毘亜幻視行」では、ようやく霊力を取り戻したりーあが、燃え盛るコアを目指して、パワーを解体し、原情念に、まさにたどり着こうとしているのである。
 “酒を飲むのは罪だというので/私は酒を楽しんでいる/女の髪は淫らだというので/私は髪を人目にさらす。//公開鞭打ちの刑場にそれでも私が曳いて行かれないのは/私の両目にゲヘナの灯が/もの恐ろしげに灯っているからだ/(“亜拉毘亜幻視行”より)
“左目に狂気がはりついて取れないので/刃物で削ってみた/血が流れて服を汚すので/タオルで押さえながら階段を降りていった/四時に迎えに来てくれるはずが五時/五色のゆうやけたなびくのに紛れて あの人は来る/たそがれどきの力に紛れてあの人はくる/花たくさん抱えて抱えているけど 燃やしてしまうの/薔薇の燃える香りが好きだっていうの(“エクソドス”より)。切ないほどに美しい詩句。りーあの詩が、これほど強くこれほど強く読者の胸に迫ってくるのは、聖と俗の危うい均衡、いうなれば、崖っぷちの上に立つエロスが放つ光芒の凄さである。更に特別すべきは、西野の原情念には国境がないということである。この国境という意味は、地球上の地球上の世界の国々の境ということを包摂しながら、人間と他の生物、さらには無機物、遂には、死霊も生霊も、神との間にさえ境は無く、対等の地平に立とうとしている。これを異端として排するか、新鮮な価値観による詩集と評価するのか、評者の側が問われていることになる。希有とも言える、この原情念をジャンルを超えて具現しいという西野の今後に、大いに期待したいと思うものある。




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(c) 1996-1997 Leea Nishino