〜宝玉の誘惑、剣の逸失・九月の銀座編〜

西野 りーあ


『揺蘭 2003年秋号』の編集に、細かな邪魔が入り続けた。大きな邪魔は常に有った。仕上がったと思ったら、表紙の印刷が酷く悪かった。おまけに、自分の後書きに誤字を見つけた。祟られている。。。ともあれ、「夜の会」に会心作を間に合わせた。
搬入にでかけた。謎の会場には妖艶な画廊主さんが。謎なことに、冷房が無くサウナ状態だった。遅々とした展示作業のあいまに、伊東屋に小物を買い出しに行った。綺羅綺羅しく飾られた文具たちが、無言で誘惑した。危険だ。求める物を何とか探し当て外に出ると、あたりはすっかり暗くなっていた。

画廊に戻る径で、高名な宝飾店のショーウインドウから、光と共に恐ろしい誘惑がほとばしっていた。首飾り、腕輪、そして指輪。呪力のありたけを解放しているようだった。うっかり目を射られた。足はすくんで動かなくなった。
“わらわの美しさはそなたを癒す”それらは言った。
“わらわをよく見るが良い。わらわを手に取るが良い。わらわを身にまとうが良い。わらわは他の装身具たちとは違う。そなたに尽きることの無い歓びを与えよう” ああ。硝子の扉の内で警備員が、こちらを見つつ扉を開けるタイミングを計っている。彼が開ければ、私は吸い込まれるように店に入るだろう。そのまま出て来ないだろう。危険だ。“なぎ”、一つの名がいきなり浮かび、それは装身具たちの誘惑を断ち切った。重い足取りでどうにか画廊に戻った。

闇の中で輝く装身具たちは確かにその辺でお目にかかる代物とは違っていた。装身具は日常的な呪術の一つだ。邪を払い、消耗を軽減し、明晰を支える。また、混沌の力で回復を促し、安らぎを与える。そう、混沌と明晰の双方に力を持つのだ。そういう代物は、必ずしも『他人に価値があるもの=自分に価値があるもの』、ではない。
しかし、目利きが苦労して見つけだした石を、その真の価値を理解する職人が研磨し、細工師が全霊込めて細工する、そうした過程で石の本来の力が増幅される。いきおい『どうしてもそれが欲しい』という人が複数出る。私は宝石類のブランドにはこだわらない口だが、ブランド物は一定の価値を供給するゆえに安心感も値段の内なのは仕方がない。
表現作品も、どうしても書かざるを得なかったものは、どうにも抗いがたい異様な力を帯びる。世間一般が“良い”と言っても本人に栄養になるとは限らない。表現作品を選ぶ際には、ひたすら自分の判断に任せるべきだ。生かじりの知識を動員するのではなく、自身の真の声に耳を傾けるのだ。

そう、搬入の夜、装身具たちは思い出させた、私に。私を陰ながら守護していた青い小刀が、行方不明のままなのを。“なぎ”がいなくなって、災いを払う力が足りない。作品型名、“サンクチュアリ”、りりの・りりやえん家に迎えられて付けられた名は、“なぎ”。彼女についてはまた語る機会があるだろう。

刃、宝玉、そして鏡。現代においても霊的守護の基本の器であるようだ。


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